たったこれだけ!元大手予備校講師が教える読書感想文の書き方のコツ ーすみ鬼にげたでみる実践ー
『すみ鬼にげた』でみるあっさり書けた例
『すみ鬼にげた』
こちらのお話も、考えを深める一つの例としてあげます。
ーあらすじー
奈良の古寺の大修理に来た、宮大工見習いの少年ヤスは、
ある日、西南の隅の柱で泣いている小さな、すみ鬼を見つけた。
すみ鬼はお堂の四隅の隅木を、歯を食いしばりながら肩で支えている。
ヤスはすみ鬼に「ここからはずしてほしい」と頼まれた。
すみ鬼は日本の鬼と一勝負したくて日本にきたのだが、
船の上でお坊さんに見つかって、ちいさな鬼にされて、すみ鬼にされてしまったのだった。
900年間、寺の柱を支えてきたが、あきれめきれず、泣いていたのだ。
少年ヤスは、そんなすみ鬼をはずしてやり、鬼は、吉野の山奥で、
念願の日本の鬼との一勝負をすることができた。
その後、またすみ鬼になってしまうが、もう泣かなくなり笑い出しそうな顔にかわる。
少年ヤスは宮大工になり、その一方鬼などの木彫りの像をほり、人々の心をとらえ評判になった。
という話です。
この本を読まれた方も多いのではないでしょうか?
そして、意外に、すごく好きな話、わかるわかる・・・その鬼の気持ち!
すみ鬼にも、少年ヤスにも、なんか共感しちゃう!
なのになんかうまく書けない・・・という行き詰まりを感じる方も
多いのではないか?と思います。
なぜなら、
「結果が大事でもあるけれど、目標がかなってれば、イヤな結果でも受け入れられる」とも読めますし、
「結果が大事だけれど、その過程がどうか、で負けても満足できる」ということとも読めますし、
「なぜ、ヤスが木像を上手く作れるようになったのか?」
「ヤスと鬼の関係が感情の交流」とか、いろいろなテーマが混乱状態になって、どっから手をつけよう?
になりやすいからです。
単純な話なようで、何か奥行き感があって、しみじみと感じたよい話だった!というものにありがちなパターン。
こういう場合は、その中から、一つ自分はどれで行くか決めましょう。
余裕がある方はいくとおりか書いて一番納得いくものを提出ということもできますが、
それは、できなくてもいいです!
とりあえず、その他はバッサリ捨てて、一つに決めちゃう!これも手です。
一番素直にそのままとらえれば、大事なポイントは
「900年泣いていた鬼が泣かなくなった。その変化はなぜ?」ということ。
900年間鬼が無念と思っていたのは、日本の鬼と一勝負したいという希望がかなってなくて
そのため泣いていた。その無念だったことを、ヤスのおかげで、達成できて、
それからは、また結果的にすみ鬼になって柱を支えてても
笑顔のような表情になっているということです。
ここで考えられるのは、
悔いや無念さ、あきらめられない気持ちのやるせなさというのは、結果からだけ生まれるのでなく、
そこまでのプロセスがどうだったのか、プロセス自体、悔いのない状態だったのか?ということに左右される、
ということ。
言い換えれば、達成感がある過程だったのか、そうじゃない過程だったのか?ということです。
これを自分のことだったら、どうだろう?
と考えてみる、これがスタートとして、一番やりやすい形ではないでしょうか?
簡単作成5ステップで考えます。
①書き出し:
鬼の気持ち、念願の一勝負という夢がかなった、だからすみ鬼でいても泣かなくてすむようになれた
その心情がわかるなあ、という場合、それをそのまま、書き出しでバン!と書きます。
例)
私はこの鬼の気持ちがすごくわかる気がした。泣いていたのが、念願のひと勝負ができてからは
また結果的にすみ鬼になっても泣かなくなった、そんな鬼の気持ちがうなずけてしまうのだ。
※鬼の気持ち、自分がここで取り上げたい鬼の気持ちを特定しておくと後で楽です。
おなかでコマをまわしてもらってる鬼の気持ちじゃないですよね?
なので、いろんなシーンから、どこをとりあげるのか、書き出しで特定する、というのも使うといいでしょう。
②衣食住の比較:
自分が鬼だったら、柱を背負うというつらい状態はどうでしょう?
やりたいことでしょうか?
やりたくないでしょうか?
このあたり、軽くふれてもいいでしょう。
例)
もし、私がこの鬼のように柱をずっと900年間も背負っていたら、と考えると、とてもつらい。
すみ鬼は、つらいことをし続けている上に、やりたかったひと勝負の夢も果たせていなかったのだから
どんなにか、無念だったに違いない。
③行動の比較:
自分も、あるでしょうか?
結果が良かったけど、プロセスがつまらなく、なぜかあまりうれしくなかったこと。
結果が悪かったけど、悔いの無い状態でそこまできたことに満足できてスッキリしたこと。
このような経験が何かあったかなあ?と振り返ってみましょう。
例えば、
・試合で、ライバルと戦うことになっていたのが、相手の欠場のために不戦勝になった。結果はラッキーということで良かったけど、どこか手放しで喜べない自分がいた。
・徒競走で、負けてしまったけれど、自分があんなに練習して頑張ったことはなかった。自分のタイムをうんと短くすることができた。だから、悔いはなかった。負けてもスッキリした気持ちでいる、という不思議な感じを経験した。
・何か一つ目標をもって、例えばドッジボールで受けたボールは絶対キャッチするんだ!と決めてそれはうまくできただけど試合は負けた、でも、自分がこれはやるぞ!と決めたことはできてそこに満足感を感じられた。
こういう経験、なにか思い出してみましょう。
思い出せた!という方、あるある!わたしもそういうことあった!という方は、
そのまま、書けると思います。
なかったという方とりあえず、今はがっかりしないでください。
まずあっさり書けた例をあげますね。
本の中のすみ鬼の様子をときおりひきあいにだして文中にまぜると、感想文らしさが強まります。
自分が書きたいテーマも読み手に伝わりやすくなります。
そんなところも参考にしてください。
例)
私はこの鬼の気持ちがわかる気がした。泣いていたすみ鬼だが、念願のひと勝負ができてからは、
結果的にすみ鬼に戻されてしまっても、もう泣かなくなった。そんな鬼の気持ちがうなずけてしまうのだ。
900年間もの間、すみ鬼は柱をずっと背負って泣いていたのか。その気持ちを考えるとどうにも痛いような
つらい思いがする。私自身、自分のことで、どうしてもすみ鬼と重なってしまうところがあるのだ。
私は、運動会の徒競走で、練習に練習を重ねたにもかかわらず、結果的に負けてしまった、ということがあった。
本番で走っている最中、自分の靴のひもがほどけた。ほんの一瞬だが、ひもに気づいたとき走りに集中できなかった。
負けた、ということはそれ自体すごくくやしい。
それだけではなくて、私がずっとひきずっていまだに悔しく思うのは十分な走りで勝負できなかったそのことなのだ。もし、満足のいく練習通りの走りができて、その結果負けたのなら、それは仕方ない。あきらめもつく。けれど、自分の想定外のことで、十分な走りを発揮できなかった、
そのうえ結果も負けだった、ということはどうにもやりきれないものがある。
すみ鬼も同じような無念さを抱えていたのではないか。ひと勝負したいと思ってはるばる日本にきたのに、
それがかなわないまま、ちいさなすみ鬼にされてしまったのだから。
結果が悪ければ、全部がっかりで、結果が良ければ満足できる、というわけではないと思う。
もしも、結果が悪かったとしても、そこまでの自分が、精一杯やれるだけのことをして、満足のいく勝負をしたうえで結果が負けならば、もっとすがすがしく、こんなやりきれない無念さは今の私にはなかったのではないか。
逆に、結果が良くても、その過程がつまらなかったとしたら、もしかしたら、どこか手放しで喜べない自分ができてしまうかもしれない。
すみ鬼の抱えた無念を自分はもう二度と抱えたくないと思う。これから生きていくときに、勝つ側でいられることは少ないかもしれない。たくさんの負けが私を待っているかもしれない。でも、そのとき、負けてもすがすがしい自分でありたい。そのためには、結果にいたるまでの過程もとても大事になってくる。
すみ鬼は、結果的にまたすみ鬼になってしまった。それでも1200年、笑い出しそうな顔でいられるのは、
ひと勝負がかなったからだ。だから、もう泣かなくてすむようになれたんだ。
つい結果ばかりに目がいきがちだけれど、そこにいたるまでというのも、後の自分に大きく響いてくる。
私は、泣いているときのすみ鬼になりたくないと思う。そのために、結果だけでなくて、そこにいたるまでの部分も、あとで無念さを抱えないようにがんばって行きたい。
(1行×20字 約60行分)